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東京高等裁判所 平成元年(行ケ)5号 判決

原告

アモコ コーポレイシヨン

被告

特許庁長官

主文

特許庁が昭和58年審判第17967号事件について昭和63年8月18日にした審決を取り消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  原告

主文同旨の判決

二  被告

「原告の請求を棄却する。訴訟費用は、原告の負担とする。」との判決

第二請求の原因

一  特許庁における手続の経緯

訴外ユニオンカーバイドコーポレーシヨンは、昭和52年10月5日名称を「減圧を使用してメソ相ピツチを製造する方法」(以下「本願発明」という。)について、昭和49年12月10日に1973年12月11日のアメリカ合衆国における特許出願に基づく優先権を主張してした特許出願(昭和49年特許願第141229号)から分割出願(昭和52年特許願第119100号)をしたところ、昭和58年4月11日拒絶査定を受けたので、同年8月23日審判を請求し、昭和58年審判第17967号事件として審理された。原告は、1986年9月18日、右出願について特許を受ける権利を訴外ユニオンカーバイドコーポレーシヨンより譲り受け、昭和62年10月19日、特許庁長官に対しその旨の特許出願人名義変更の届出をしたが、昭和63年8月18日、「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決があり、その謄本は同年9月14日原告に送達された。なお、原告のため出訴期間として90日が附加された。

二  本願発明の要旨

炭素質ピツチを、メソ相の形成間に減圧を施しながら三五〇~四五〇度Cの温度においてメソ相含量四〇~九〇重量%の範囲になるまで加熱することから成るメソ相ピツチの製造法

三  審決の理由の要点

1  本願発明の要旨は前項記載のとおりである。

2  これに対して、昭和43年特許出願公告第4550号公報(以下「引用例」という。)には、炭素含有率九一~九五%、平均分子量四〇〇以上の炭素と水素を含むピツチ類又はこの範囲外のピツチ類を適当な処理によりこの範囲内の組成に変質し、これを原料として熔融紡糸を行い、その後、不融化処理及び炭化処理を施すことにより強度の極めて優れて実用価値の大きい炭素繊維の製造法が記載され、特にピツチ類の処理として、ピツチ類を三〇〇~四〇〇度Cで常圧あるいは高真空下に乾溜を施すこと、具体的には、石油ピツチを窒素気相中で三八〇度Cの温度で一時間乾溜した後、10-4mmHgの真空下三〇〇度Cで三時間加熱し、低分子量成分を溜出させると同時に加熱処理を行うことが開示されている。

3  そこで、本願発明を引用例の記載と対比し検討すると、ピツチ類を三五〇~五〇〇度C間で加熱処理を行つた場合、メソ相が出現すること、メソ相への変換は熱処理温度と保持時間との相関関係で定まることは、当業界でよく知られた事実であることを前提として、引用例の開示事項をみると、引用例には、石油ピツチを三〇〇~四〇〇度Cで高真空下に乾溜して、低分子量成分を溜出させていることが開示されているので、引用例の加熱生成物にはメソ相が生成したことが明示されていないとしても、前記よく知られた事実からみて、石油ピツチを四〇〇度C付近温度で加熱すると、メソ相が生成することが推認され、また、減圧下に行うことは、低分子量成分を溜出させることがあるので、本願発明の所望のメソ相含量のピツチを得るために、ピツチを規定温度で減圧下に加熱し、それを必要時間継続することは、引用例の記載事項と当業界でよく知られた事項から、当業者が容易に採用することができる技術的事項と認める。

そして、本願発明の所望範囲のメソ相含量のピツチにすることは、その後の紡糸、不融化処理及び炭化処理して、高強度の炭素繊維を得るための好適な原料にすることであり、引用例においても高強度の炭素繊維を得るための原料の処理である点で軌を一にするものである。

したがつて、本願発明は、引用例の記載事項から当業者が容易に発明をすることができるものと認められるので、特許法第二九条第二項の規定により特許を受けることができない。

四  審決の取消事由

引用例に審決の理由の要点2摘示の技術内容が開示されていることは認めるが、審決は、本願発明と引用例記載の発明とを対比判断するに当たり、引用例には、本願発明の目的とする所望範囲のメソ相含量を有するメソ相ピツチ及びその製造法について記載も示唆もないことを看過誤認した結果、本願発明は引用例の記載事項から当業者が容易に発明をすることができるものと誤つて判断したものであつて、違法であるから、取り消されるべきである。

1  本願発明の目的とするメソ相ピツチの所望範囲のメソ相含量は四〇~九〇重量%である。

これに対し、引用例には、メソ相含量が四〇~九〇重量%の範囲にあるものが生成されたとの記載は一切ない。

この点について、審決は、「引用例には、石油ピツチを三〇〇~四〇〇度Cで高真空下に乾溜して、低分子量成分を溜出させていることが開示されているので、引用例の加熱生成物にはメソ相が生成したことが明示されていないとしても、前記よく知られた事実からみて、石油ピツチを四〇〇度C付近の温度で加熱すると、メソ相が生成することが推認され」ると認定している。

しかしながら、メソ相含量が四〇~九〇重量%のメソ相ピツチを得るには、出発原料(前駆体ピツチ)を三五〇~四五〇度Cの温度範囲で加熱しなければならず、そのための反応時間は、四五〇度Cの反応温度では二時間以上、三五〇度Cの反応温度では六〇時間、必要である。しかるに、引用例に記載された具体例によれば、四〇〇度Cでの乾溜時間はわずかに一時間、三〇〇度Cでの加熱時間はわずかに三時間であるにすぎないから、メソ相が生成するとしても極くわずか(三%以下)であり、メソ相含量が四〇%以上には到底達しない。

したがつて、引用例に具体的に記載された条件あるいはそれに近い条件では等方性ピツチが得られるにすぎない。

すなわち、引用例記載の発明は、炭素繊維を製造できるピツチの製造という点では本願発明の目的と一致するとしても、具体的にメソ相含量四〇~九〇重量%のメソ相ピツチを製造することを目的とするものではなく、非晶質部分が大量に含有されたいわゆる等方性ピツチの製造方法に関するものである。このことは、通常、等方性ピツチの製造が比較的高温で短時間の乾溜予備処理工程(低分子量成分の追い出し)と、それに続く比較的低温度で長時間の均質化工程とから成ることから明らかである。このような等方性ピツチは紡糸して得た炭素繊維がメソ相ピツチから紡糸したものに比して特性が悪いことは本件出願当時周知である。

2  審決は、前記1摘示の認定の前提として、「ピツチ類を三五〇~五〇〇度C間で加熱処理を行つた場合、メソ相が出現すること、メソ相への変換は熱処理温度と保持時間との相関関係で定まることは、当業界でよく知られた事実であること」を認定している。

原料ピツチ類の選択が適当なら、ピツチ類を三五〇~五〇〇度C間で加熱処理を行つた場合、ある程度のメソ相が出現すること、メソ相への変換は熱処理温度と保持時間との相関関係で定まることが本件出願当時当業者によく知られた事実であることは認める。

しかしながら、どんなピツチ類でもこれを三五〇~五〇〇度C間で加熱処理を行つた場合、メソ相が出現すること、四〇~九〇重量%メソ相への変換は熱処理温度と保持時間との相関関係で定まることは、本件出願当時周知でも公知でもない。

したがつて、本件出願当時周知の事実によつては、引用例記載の方法からメソ相含量四〇~九〇重量%のメソ相ピツチを生成せしめることを推認できない。引用例には、本願発明の構成の一部である「四〇~九〇重量%の範囲になるまで」の保持時間よりもはるかに短かい時間しか記載されてなく、このような保持時間では極くわずかなメソ相しか生成しないからである。

また、審決は、「減圧下に行うことは、低分子量成分を溜出させることであるので、本願発明の所望のメソ相含量のピツチを得るために、ピツチを規定温度で減圧下に加熱し、それを必要時間継続することは、引用例の記載事項と当業界でよく知られた事項から、当業者が容易に採用することができる技術的事項と認める」と認定、判断している。

引用例には、乾溜工程において減圧を行うことが記載されているが、その目的はメソ相ピツチを増大させることではなく、乾溜は低分子量成分を溜出させて高分子成分のみを残留させ分子量を整えるための予備処理であるにすぎない。引用例の実施例1に記載された乾溜条件(三八〇度Cで一時間)の処理では認められるほどのメソ相成分は生成しない。また、その後に実施される三〇〇度C、三時間の条件ではメソ相部分はほとんど増大せず、このとき減圧を実施してもメソ相部分の増大に対しては何らの効果もない。

引用例記載の発明が等方性ピツチを生成する方法にすぎないことは、石油ピツチについてピツチ処理温度をパラメータとし処理時間とメソ相ピツチ含有量の関係を実験し、得られた一連のデータを基にして曲線を描いたグラフ(甲第四号証)から明らかである。

これに対して、本願発明における減圧処理はメソ相ピツチの生成反応を促進させ、かつ得られるピツチの流動性及び紡糸性を改良する目的で行うものである。従来、好ましい流動学的性質を有するピツチを得る点からは比較的温和な温度で長い時間をかけて反応を行わせるのが好ましいが、経済的でなく、一方反応温度を高めれば、一般的にメソ相部分の収率は増大するもののピツチの流動学的性質は悪化するというそれぞれ相反する問題があつた。本願発明はこれらの問題を解決したもので、本願発明の減圧処理を行うことにより、(a)所定温度において、かかる処理の不存在下で通常必要とされる速度の二倍以上の速度でメソ相ピツチを調整することができる(本願発明の特許出願公開公報(以下「本願公報」という。)第四頁左上欄第九行ないし右上欄第六行)、(b)得られるメソ相ピツチは、ピツチのメソ相及び非メソ相部分の平均分子量分布が小さく、したがつて改良された流動学的性質及び紡糸特性を有する(本願公報第六頁右上欄第三行ないし第一二行)という作用効果を奏するものである。なお、本願明細書の実施例(本願公報第一二頁右下欄ないし第一三頁左上欄)には、ピリジン不溶分が同じ五時間で従来の五七%から七一%に増加したことしか記載されていないが、他の箇所(同第四頁左上欄第九行ないし右上欄第六行、第五頁左上欄第一六行ないし右上欄第九行)には同一生成量に対して約半分以下の時間と記載されているから、右の増加は実施例の場合が約半分以下の時間に相当することを示している。

第三請求原因に対する認否及び被告の主張

一  請求の原因一ないし三の事実は認める。

二  同四は争う。審決の認定、判断は正当であり、審決に原告主張の違法はない。

1  引用例には、単に実施例による予備処理が記載されているのみでなく、「三〇〇~四〇〇度Cで常圧或は高真空下に乾溜」(第一頁右欄第三四行)したり、「四〇〇度C以下の温度で長時間加熱」(同欄末行、第二頁左欄第一行)する旨記載されており、乙第一号証(ドイツ連邦共和国特許出願早期公開第2315144号明細書、公開1973年10月11日)及び乙第二号証(石油学会誌第一五巻第三号、昭和47年3月1日発行第二〇頁ないし第二六頁)の記載からみて、本願発明で特定する量のメソ相を含有するピツチが生成することが明らかな条件を包含している。

また、引用例には、ピツチ類は一般に分子量が小さく、これを予備処理して平均分子量四〇〇以上二〇〇〇以下に変化させると極めてすぐれた炭素繊維原料が得られる旨(第一頁右欄第二七行ないし第三二行)記載されており、乙第一号証にも原料ピツチからメソ相の形成の変化について、「これら有機化合物を構成する分子は比較的小さく(平均分子量数百以下)かつ互いに弱くしか相互作用をしないので、このようなピツチは本来等方性である。これらピツチを静的条件下で約三五〇~四五〇度Cで、しかも一定の温度かあるいは徐々に温度を上げて加熱すると、小さな不溶性液体球がピツチ中に現れ始め、加熱し続けると寸法が徐々に増大する。」(第一八頁第二五行ないし第一九頁第七行)と記載されている。してみると、引用例記載の発明における予備処理は、分子量を増大させるために行う点及び処理条件において乙第一号証記載の発明と変らないから、同様にメソ相が形成されることは当業者に自明のことである。

さらに、引用例には、予備処理によつて曳糸性に優れ、紡糸後の不溶化処理も容易で強度の大なる炭素繊維の原料となるピツチが得られる旨(第二頁左欄第二八行ないし第三一行)記載されており、このような生成ピツチの性状ないし効果は、乙第一号証に記載されたメソ相含有ピツチの性状ないし効果と軌を一にするから、乙第一号証を参照すれば引用例記載の発明における予備処理は、メソ相を形成させることを目的として行つたものであることが明らかである。

したがつて、本願発明と引用例記載の発明とが目的ピツチを異にするという原告の主張は根拠がない。

2  「ピツチ類を三五〇~五〇〇度C間で加熱処理を行つた場合メソ相が出現すること、メソ相への変換は熱処理温度と保持時間との相関関係で定まることは、当業界でよく知られた事実である」との審決の認定は、乙第一号証(第一六頁第一九行ないし第一七頁第三行、第二二頁第一六行ないし第二一行、第二二頁第二四行ないし第二三頁第一三行)、乙第二号証(第二〇頁右欄第二六行ないし第三一行)に基づくものである。

原告は、どんなピツチ類でもこれを三五〇~五〇〇度C間で加熱処理を行つた場合、メソ相が出現すること、四〇~九〇重量%メソ相への変換は熱処理温度と保持時間との相関関係で定まることは、本件出願当時周知でも公知でもない旨主張する。

しかしながら、所定温度以上で所望時間加熱処理することによりメソ相を生成し得るピツチ類については、乙第一号証には、石油ピツチ、コールタールピツチ等が使用されること(第二六頁第一行ないし第五行)が記載され、乙第二号証にも前記指摘箇所に同種のピツチ類が用いられることが記載されており、一方、引用例においても、用いる原料ピツチ類として乙第一、第二号証に示すものと同一の石油ピツチ(本願発明においても石油ピツチを使用している。)、石炭タールピツチ、コールタールピツチ等が例示されている。してみれば、少なくとも引用例に具体的に例示されている原料ピツチについては、所定温度以上に所定時間加熱処理すれば、メソ相を生成することは明らかである。そして、これら原料ピツチ類を用いて、三五〇~五〇〇度C間で熱処理し、保持時間によりメソ相含量九〇重量%程度のものまで適宜に得ることができることは、乙第一、第二号証にも記載されてよく知られた事実であるので、原告の前記主張は当を得ないものである。

また、原告は、引用例には「四〇~九〇重量%の範囲になるまで」の保持時間よりもはるかに短かい時間しか記載されてなく、このような保持時間ではわずかなメソ相しか生成しない旨主張する。

しかしながら、引用例には、「三〇〇~四〇〇度Cで常圧或は高真空下に乾溜し」、「四〇〇度C以下の温度で長時間加熱する」と記載されていることは前述のとおりであり、また、予備処理されて得られるピツチとして、本願発明の所望のメソ相を含有するピツチの平均分子量の説明(本願公報第五頁右下欄第八行ないし第六頁右上欄第二行)からみて、相当量のメソ相を含有しているといえる平均分子量二〇〇〇に近いものが得られること(第一頁右欄第二八行)も記載されている。してみれば、引用例は、メソ相を相当量含有するピツチを得る予備処理方法をも開示しているとみることができ、等方性ピツチを得る方法を示すにすぎない、という原告の主張は、当を得ない。

さらに、原告は、引用例には、乾溜工程において減圧を行うことが記載されているが、その目的はメソ相ピツチを増大させることではなく、乾溜は低分子量成分を溜出させて高分子成分のみを残留させ分子量を整えるための予備処理であるにすぎない旨主張するが、引用例の前記記載事項からみて、引用例記載の発明における高真空下の乾溜の適用がメソ相の生成を促進するためのものでないということはできない。乙第二号証には、メソ相の生成と生長の挙動について、「熱分解によるガスの発生を伴なうのが常である。発生したガスはまだやわらかい合体したメソフエースを押しのけて上部に逃げる。この際のガスのあわのpercola-tionにより合体したメソフエースはさらに変形をうける。と同時に系全体の粘度がしだいに上昇し」(第二二頁右欄第二六行ないし第三一行)と記載され、該熱分解により発生するガスは低分子量成分と認められるので、同記載は、ピツチ類を加熱処理することによるメソ相の生成と生長は、熱分解とそれにより発生する低分子量成分の除去を伴いながら進行することを示しており、この記載を参照すれば、引用例記載の発明における高真空下の乾溜の適用は、メソ相の生成と生長の促進に作用しているものとみるべきである。

原告が主張する本願発明の奏する作用効果(a)については、本願明細書の実施例をみると、同一時間処理した場合のメソ相の増加率を示すのみであつて、半分の時間で同一量のメソ相が生成するかどうか明らかではなく、しかも、生成するメソ相の性状については触れるところがない。同(b)については、右明細書の実施例においては、生成ピツチついて、メソ相及び非メソ相の分子量組成を示していないので、事実かどうか明らかでない。また、たとえ右作用効果を奏し得ることが本願明細書に具体的に示されたとしても、引用例記載の発明は、原料ピツチの処理条件、メソ相の生成と生長の促進の作用において、本願発明と異なるところがないから、これをもつて予期しない優れた作用効果ということはできない。

第四証拠関係

証拠関係は、本件訴訟記録中の書証目録記載のとおりであるからここにこれを引用する。

理由

一  請求の原因一(特許庁における手続の経緯)、二(本願発明の要旨)及び三(審決の理由の要点)の事実は、当事者間に争いがない。

二  そこで、原告主張の審決の取消事由の存否について判断する。

1  成立に争いのない甲第二号証の一、二によれば、本願明細書には、本願発明の技術的課題(目的)、構成及び作用効果について、次のとおり記載されていることが認められる。

(一)  本願発明は、メソ相ピツチの製造法、特に高弾性高強度炭素繊維の製造において有用なメソ相ピツチを製造するに際し、減圧を使用することを特徴とするメソ相ピツチの製造法に関する(本願公報第一頁左下欄第九行ないし第一三行)ものである。

航空機、宇宙飛行体等の製作の用途に必要な、高い強度及び剛性によつて特徴づけられ同時に軽量である材料の一つとして高弾性高強度炭素繊維があるが、その製造コストが高いため普及した使用に対する大きな障害があつた(同頁右下欄第三行ないし第二頁左上欄第八行)。

そこで、高弾性高強度炭素繊維を低コストで製造する方法として、いわゆるメソ相ピツチから高弾性高強度炭素繊維を製造する方法が知られている(同欄第九行ないし第一二行)。

ところで熱処理によつて高い弾性ヤング率及び高い引張強度を有する炭素繊維に転化できる繊維に紡糸するには、約四〇~九〇重量%のメソ相含量を有する炭素質ピツチが好適である(同公報第二頁右下欄第一四行ないし第一七行)。

メソ相を生成するのに一般に必要とされる最高温度である三五〇度Cでは、約四〇重量%のメソ相含量を生成するには、少なくとも一週間の加熱が必要であり、約四〇〇~四五〇度Cの温度では、メソ相への転化は急速に進行し、約一~四〇時間内に五〇重量%のメソ相含量を通常生成することができる(同公報第三頁左下欄第五行ないし第一一行)。

このように、所定のメソ相含量を有するメソ相ピツチを生成するのに必要とされる時間は、調整温度が上がるにつれて短かくなるが、高められた温度での加熱は、ピツチのメソ相及び非メソ相部分の両方の分子量分布を変えることによつてピツチの流動学的性質に悪影響を及ぼすこと、すなわち、高められた温度での加熱は、ピツチのメソ相部分におけ高分子量分子の量を増加する傾向があると同時にピツチの非メソ相部分における低分子量分子の量の増加をもたらす結果、高められた温度において比較的短時間で調整された所定のメソ相含量を有するメソ相ピツチは、適度な温度において長時間にわたつて調整された同様のメソ相含量のメソ相ピツチよりもピツチのメソ相部分に高い平均分子量及び非メソ相部分に低い平均分子量を持つことが分かり、この広い分子量分布は、ピツチの流動性及び紡糸性に悪影響を及ぼすことが分かつた(同欄第一七行ないし右下欄第一四行)。

本願発明は、好ましい流動学的性質をピツチに付与するところの比較的適度な製造温度においてメソ相ピツチを生成するのに必要とされる時間を短縮するための手段を探究することを技術的課題(目的)とするものである(同公報第四頁左上欄第八行ないし第一一行)。

(二)  本願発明は、所定のメソ相含量を有するメソ相ピツチはメソ相形成の間にピツチに減圧を施すならば、所定の温度においてこれまで可能であるよりも実質上短かい時間で調整できること(同欄第一二行ないし第一六行)を知見し、特許請求の範囲(本願発明の要旨)記載の構成(昭和57年8月11日付け手続補正書第三枚目第四行ないし第七行)を採用した。

(三)  本願発明は、右の構成とすることにより、ピツチの減圧処理は、ピツチの低分子量重合副生物と一緒に最初に存在する揮発性低分子量成分を除去するのを補助し、前駆体ピツチのメソ相ピツチへのより効率的な転化をもたらし、これにより、約四〇~九〇重量%のメソ相含量を有するメソ相ピツチは、所定温度において、このような処理の不在下で通常必要とされる速度の二倍以上までの速度で、すなわち、メソ相を減圧の不在下に生成するときに通常必要とされる人時間の半分以下程度の時間で調整できる(本願公報第四頁左上欄第一六行ないし右上欄第六行)。また、一般には、所定のメソ相含量ピツチを生成するのに必要な時間は、同一条件下にしかし減圧の不在下に調整するときとは反対に、メソ相を真空下に生成するときには、少なくとも二五%通常四〇~七〇%程短縮される(同公報第五頁右上欄第四行ないし第九行)。さらに、この操作は、ピツチの非メソ相部分の低分子量分子の量を減じ、かつ、その平均分子量を上げる(すなわち、ピツチのメソ相及び非メソ相部分の数平均分子量分布が狭いものとする。)効果を持ち、したがつて、かかるピツチは揮発物をほとんど発生することなしに小さい、かつ均一な直径の繊維に容易に紡糸することができる(同頁左上欄第九行ないし第一五行)という作用効果を奏するものである。

2  原告は、審決は、本願発明と引用例記載の発明とを対比判断するに当たり、引用例には、本願発明の目的とする所望範囲のメソ相含量を有するメソ相ピツチ及びその製造法について記載も示唆もないことを看過誤認した旨主張するので、引用例の記載事項は、メソ相含量が四〇~九〇重量%のメソ相ピツチの生成を示唆し、これに基づいて本願発明を容易に想到することができたかについて検討する。

成立に争いのない甲第三号証によれば、引用例には、次の事項について記載されていることが認められる。

引用例記載の発明はピツチ類から炭素繊維を製造する方法に関する(第一頁左欄第一一行、第一二行)ものであり、「適当な条件で予備処理を施し、炭素含有率九一~九五%、好ましくは九二~九四%、平均分子量四〇〇以上、好ましくは平均分子量四〇〇以上溶融紡糸の可能なもの、例えば平均分子量四〇〇以上二〇〇〇以下の炭化水素に変化させると、曳糸性も良好であるのみならず紡糸後の不熔化処理も容易になる」(同頁右欄第二四行ないし第三〇行)、「適当な条件での予備処理とは、例えば、ピツチを三〇〇~四〇〇度Cで常圧或は高真空下に乾溜を施してもよく」(同欄第三三行ないし第三五行)、「要は任意の適当な手段により炭素含有率九一~九五%で、平均分子量四〇〇以上の芳香族その他の不飽和成分の多いピツチ状の炭化水素とすることが出来れば充分であり」(第二頁左欄第一〇行ないし第一三行)、「実施例1 石油ピツチ(中略)五〇〇gを窒素気相中で三八〇度Cの温度で一時間乾溜した後、10-4mmHgの真空下三〇〇度Cで三時間加熱し、低分子量成分を溜出させると同時に加熱処理を行う。この残留物は、(中略)炭素九一・二%である。Rast法による平均分子量は六五〇、室温で黒色の光沢ある固体である」(同頁右欄第二七行ないし第三七行)。

右の記載事項によれば、引用例には、炭素繊維を製造する方法において、原料であるピツチに適当な処理を施す、すなわち、三八〇度Cの温度で一時間乾溜した後、真空下で三〇〇度Cで三時間加熱し、低分子量成分を溜出させると同時に加熱処理を行うと、この残留物は、平均分子量が六五〇の固体であることが記載されていると認められる。

ところで、引用例には審決の理由の要点2摘示の技術内容が開示されていることは、当事者間に争いがない。

審決は、「ピツチ類を三五〇~五〇〇度C間で加熱処理を行つた場合、メソ相が出現すること、メソ相への変換は熱処理温度と保持時間との相関関係で定まること」は、周知事実であることを前提として引用例の記載事実に基づき本願発明の容易推考性を判断している。

成立に争いのない乙第一号証によれば、ドイツ連邦共和国特許出願早期公開第2315144号明細書(1973年10月11日公開)には、「メソ相含量約四〇~約九〇重量%の炭素質ピツチは公知技術により炭素質ピツチを不活性雰囲気中で約三五〇度C以上の温度で所望量のメソ相を生成するのに十分な時間加熱することによつて製造できる。(中略)所望のメソ相含量を生成するのに必要な加熱時間は使用される特定のピツチ及び温度により変化し、高温より低温でより長い加熱時間が必要である。」(第二二頁第一六行ないし第二三頁第一行)と記載され、成立に争いのない乙第二号証によれば、石油学会誌第一五巻第三号(昭和47年3月1日発行)中の真田雄三「重質油の炭化」には、「タールピツチなどを三五〇~五〇〇度Cの間で加熱すると、熱分解、重縮合などが起こり分子の再配列が起こる。(中略)すなわち、光学的等方性のマトリツクス中に一種の液晶である光学的異方性のメソフエース(中略)が析出する。」(第二〇頁右欄第二六行ないし第三一行)、「生成したメソフエースは温度の上昇または保持時間を長くすると成長する。」(第二一頁右欄第二二行、第二三行)と記載されていることが認められ、右認定事実によれば、審決認定の前記事項は、本件出願当時周知の事項であるということができる。

しかしながら、前掲乙第一号証によれば、右特許明細書には、「メソ相の生成に一般に必要とされる最小温度の三五〇度Cでは、約四〇%のメソ相含量を生成するには通常少なくとも一週間の加熱が必要である。約四〇〇~四五〇度Cの温度では約一~四〇時間内で通常五〇%メソ相含量を生成することができる」(第二三頁第一行ないし第八行)と記載されていることが認められ、また成立に争いのない甲第四号証によれば、アーウインシールーイスの宣誓供述書中には、石油ピツチを原料とし、温度をパラメータとし、横軸に処理時間、縦軸にメソ相の生成量の関係を実験し、得られたデータを基にプロツトしたグラフが示されており、右グラフには、三五〇度Cにおいて四〇重量%のメソ相を生成させるには、約二〇〇時間を要し、三八〇度Cにおいては、約二九時間を要することが記載されていることが認められる。

これらの記載事実によれば、約四〇重量%のメソ相含量を有するメソ相ピツチを生成するには、一般に最小温度三五〇度Cが必要であり、例えば三八〇度Cで約二九時間要することが認められる。

してみると、三五〇度C以上の加熱によりメソ相の出現すること及びメソ相への変換は温度と保持時間との関係で定まることが周知であつても、引用例記載の発明の具体例である三八〇度Cの温度で一時間の乾溜、さらに真空下三〇〇度Cで三時間の加熱を合わせても四時間加熱を行う処理条件では、多少のメソ相ピツチが生成されているということはできても、四〇重量%以上のメソ相ピツチが生成されているとは到底認めることができない。

しかも、引用例記載の発明における加熱処理手段は、前記認定のとおり炭素含有率九一~九五%で平均分子量四〇〇以上二〇〇〇以下の芳香族その他の不飽和成分の多いピツチ状の炭化水素とすることができれば十分であつて、真空下加熱処理は低分子量成分を溜出させるためと解し得る以上のものではない。これに対し、本願発明における減圧下の加熱処理は、前記1認定のように、メソ相含有率が四〇~九〇重量%の範囲にあるメソ相ピツチの生成に必要な時間は、温度が上がるにつれて短かくなるが、一方、この高められた温度ではピツチのメソ相部分に高い平均分子量及び非メソ相部分に低い平均分子量を持つこととなり、この広い分子量分布は、ピツチの流動性及び紡糸性に悪影響を及ぼすことを知見し、このようなピツチの特性に悪影響を及ぼさない、所定の温度でこれまで可能であつたよりも実質上短かい時間でメソ相ピツチを調整するこという課題を解決するために設定した条件であり、その結果、前記1認定の顕著な作用効果を奏するものである。そして、前掲甲第三号証を検討しても、引用例には、この点について何らの記載も示唆も認めることができない。

したがつて、引用例記載の発明における原料ピツチを減圧下で加熱処理する条件が本願発明の要旨とする条件と上位の概念において一致し、また、該処理を施した場合、最初に存在する揮発性低分子量の成分が除去されるものである点で一致するとしても、本願発明の処理条件は、所定のメソ相含量を有するメソ相ピツチを製造するための条件であり、当業者において、所定のメソ相含量を有するメソ相ピツチについて何らの記載も示唆もない引用例の記載事項から本願発明を容易に想到し得たということはできない。

この点について、被告は、引用例には、「三〇〇~四〇〇度Cで常圧或は高真空下に乾溜」し、「四〇〇度C以下の温度で長時間加熱する」と記載され、また、相当量のメソ相を含有していることが明らかな平均分子量二〇〇〇に近いものが得られる旨記載されているから、引用例はメソ相を相当量含有するピツチを得る予備処理方法をも開示している旨主張する。

しかしながら、前述のとおり、本願発明は、メソ相含量が四〇~九〇重量%の範囲であるメソ相ピツチを製造するために、所定の温度範囲の下、短時間で製造することを意図して減圧下に処理することで解決を図つているものであり、引用例には、このメソ相ピツチの生成について記載も示唆もされていないから、被告の右主張は採用できない。

また、被告は、乙第二号証を参照すれば、引用例記載の発明における高真空下の乾溜の適用は、メソ相の生成と成長の促進に作用しているものとみるべきである旨主張する。

しかしながら、前掲乙第二号証を検討しても、加熱により熱分解してメソ相が生成する旨の記載以外に、真空下に行うことの記載はないことが認められ、かつ、引用例も低分子量成分を溜出せしめることを記載するのみであるから、被告主張の根拠を見いだし得ない。

さらに、被告は、原告主張の本願発明の奏する作用効果は実施例において具体的に示されていない旨主張する。

本願明細書に記載された作用効果は、前記1認定のとおりであつて、前掲甲第二号証の一によれば、本願明細書の実施例における、生成されたメソ相の分子量組成についての記載は明瞭でないきらいはあるが、平均分子量分布の輻が広くなるのは、高温下に短時間で加熱することによつて生じる弊害であつて、本願発明は、この温度条件を避け、好ましいとされる温度条件下で解決を図るのであるから、その結果については十分理解し得るところであり、また、本願明細書には、「一般には、所定のメソ相含量のピツチを生成するのに必要な時間は、(中略)真空下に生成するときには、少なくとも約二五%通常四〇~七〇%程短縮される」(第五頁右上欄第四行ないし第九行)、「例1(中略)5℃/Hrの速度で四一五度Cの温度に加熱し(中略)五時間維持する(中略)一mmHg以下の圧力下に加熱(中略)。得られたピツチは真空の不在下に調整したピツチに関しての僅か五七%のピリジン不溶分含量に比較して七一%のピリジン不溶分含量を有していた。」(第一二頁右下欄第一一行ないし第一三頁左上欄第一一行)、「熱処理をする前のピツチの不溶分含量に優る熱処理ピツチの不溶分含量は、本質上メソ相含量に相当する。」(第六頁左下欄第一九行ないし右下欄第一行)と記載されていることが認められ、これらを総合的にみれば、時間短縮の効果を奏することが認められるから、被告の前記主張は採用できない。

被告は、原告主張の作用効果を奏し得ることが本願明細書に具体的に示されたとしても、引用例記載の発明は、原料ピツチの処理条件、メソ相の生成と生長の促進の作用において本願発明と異なるところがないから、これをもつて予期しない優れた作用効果とはいえない旨主張するが、両者の右処理条件、作用に差異があることは前述したところから明らかてあつて、被告の右主張はその前提において誤りがあり採用できない。

3  以上のとおりであるから、審決が前記周知事項を前提として、引用例の記載事項から当業者が本願発明を容易に想到することができたと判断したのは誤りであり、審決は違法として取消しを免れない。

三  よつて、審決の違法を理由にその取消しを求める原告の本訴請求は正当としてこれを認容し、訴訟費用の負担について、行政事件訴訟法第七条、民事訴訟法第八九条の各規定を適用して主文とおり判決する。

(裁判長裁判官 竹田稔 裁判官 春日民雄 裁判官 岩田嘉彦)

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